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こうじ探求人の学び日記 その7 ~名を冠した賞のある先生方(その1)~

CULTURE

こうじ探求人の学び日記 その7 ~名を冠した賞のある先生方(その1)~

■日本生物工学会
 私が理事を務めている日本生物工学会の年次大会が9月2日~3日にかけて開催されました。今年度は、本来は東北大学@仙台で開催される計画でしたが、コロナの影響もあり、現地開催は断念し、当初企画の一部(学会授賞式と受賞講演、およびシンポジウム)をWEBによるオンライン形式で開催することになりました。
 生物工学とは、「生命科学に基礎を置く生産と環境整備に関わる工学」と定義されており、古くは酒類製造や醤油製造などの醸造技術から、アミノ酸発酵や核酸発酵などの発酵生産技術、そして再生医療や創薬などの最新技術に至るまでの幅広い分野を包含する学問です。
 前記したシンポジウムも、「日本のバイオ戦略2020に生物工学はどのように関われるか」という非常に壮大なものから、「あなたの研究、世に出しませんか~基礎研究⇔事業化を互いの視点から考える~」という企業の研究員が抱えているジレンマに関することまで、多岐にわたる内容で構成されており、学習ポイントと共感ポイントが目白押しのプログラムでした。

 そのシンポジウムに先立って行われたのが、本年度の学会賞の受賞者の表彰と受賞講演です。生物工学賞、功績賞、功労賞、技術賞、論文賞など様々な賞があるのですが、その一つの生物工学奨励賞は、「江田賞」、「斎藤賞」、「照井賞」という3つの賞で構成されています。勘のいい方はお気づきになったと思いますが、野球に沢村栄治賞やサイヤング賞、文学に芥川龍之介賞、医学に野口英世アフリカ賞があるように、表彰名称にその分野で大きな功績をあげた偉人のお名前が冠せられたものは数多くあります。生物工学会の賞に冠せられている、江田先生、斎藤先生、照井先生も実在した人物であり、生物工学に関連する分野で大きな功績をあげられておられます。
 私は、江田先生、斎藤先生、照井先生のそれぞれが生物工学の分野で功績を残されたことくらいは知っていましたが、先生方が世のため、人のためになされた偉業の詳細については知らない面が多かったので、今回の理事に就任したことを機に学びなおしてみました。
 それぞれの先生方のご功績は、とても1回でまとめられる量でも内容でもないので、3回にわたってご紹介します。


■江田鎌治郎(えだかまじろう)先生
 江田鎌治郎先生は、明治5年に新潟県でお生まれになりました。江田先生が活躍をされた明治時代の日本酒は生酛(きもと)づくりと呼ばれる製法でつくられるのが一般的でした。酒造りにおいては、よい酒を造るための鍵となる重要な工程を「一麹、二酛、三造り」と表現します。つまり、はじめに良い麹を仕上げて、次にその麹から供給される栄養源等を使ってアルコールや香りの生産を担う優良な酵母を雑菌を抑えながら増やして酛〔酒母〕を仕上げて、最後に酛〔酒母〕をベースにして量を増やしながら醪(もろみ)を段階的に仕込んでいくという造りを行うと良い酒が仕上がります。この2段階目の酛においては、酵母の数を増やすことが大切ですが、酵母以外の雑菌増殖を抑えるために乳酸を適度に蓄積させるという役割も大切となります。生酛づくりとは、自然界(仕込み水や醸造蔵の桶や樽)に存在している様々な微生物(硝酸還元菌、乳酸球菌、乳酸桿菌)の力を活用して、目的とする乳酸を酛に蓄積させるという仕込み方法です。生酛づくりは、微生物など自然の力をダイナミックかつ最大限に活用した生物工学的にも理にかなった仕込み方法なのですが、明治時代のように、温度等の制御設備や測定装置などが十分でなかった時代においては、自然界に存在していた微生物の調子を一定に保つことが難しかったようで、できるお酒の品質のばらつきは大きかったようです。また、醪に腐造乳酸菌などが異常増殖して正常な品質の日本酒ができなくなるという腐造も頻発していたようです。当時(明治後期)においては、国税の3割ほどを酒税が担っていたそうなので、税収を減少させる腐造への対策は国家レベルの重大な事項だったようです。〔国税の3分の1を酒税が占めていたというのは驚きの事実でした。昔から、高い税を払ってでもお酒を飲みたいというお酒好きは多かったのですね。〕
 国家レベルの問題であったお酒の腐造や品質のばらつきの解決のために、大蔵省の醸造試験所の職員であった江田先生が、研究し、体系づけて、全国に普及させたのが、速醸酛(そくじょうもと)です。速醸酛とは、仕込みの途中において乳酸を添加するという方法であり、これにより酸に強い醸造酵母以外の微生物は増殖しにくくなり、確実な雑菌汚染防止(腐造防止)が可能となりました。速醸酛のもう一つの秀逸な点は、従来の生酛はその育成に15~20日を要していたものが、速醸酛の手法により5~12日に短縮されるということです。つまり、我々が安定しておいしいお酒を手ごろな価格で飲めるのは江田先生のご功績のおかげであるということが言えると思います。
 そのような経緯で、生物工学会の江田賞は、清酒などの醸造に関する学理および技術の進歩に寄与した会員に対して授与される賞となっています。


■見直される生酛づくり
 江田先生の功績である速醸酛の普及により、生酛づくりなどの製法は一度衰退しましたが、設備が発達し微生物等の管理が昔と比べて格段に容易になった今の時代に、生酛づくりは再び見直されてきています。
速醸酛などの技術の確立は、どこの蔵でも品質の良いお酒が安定してできるようになるという大きなメリットがある一方で、どこの蔵も同じようなお酒になり個性が無くなってしまうというデメリットもあります。
 個性という点でいうと、欧州では、伝統的に地域ごとの酒造りが守られてきました。例えば、スコッチウイスキーは、ローランド、ハイランド、スペイサイド、キャンベルタウン、アイランズ、アイラという6つの地域でそれぞれ個性が生かされていますし、ワインではテロワールという言葉があるようにブドウ畑や醸造所を取り巻く自然環境ごとの個性が生かされて、独自の文化を形成しています。
 学び日記のその4で、日本の食文化(和食)は、「多様で新鮮な食材とその持ち味を尊重している」という点が評価ポイントの一つとなり、ユネスコの無形文化遺産に登録されたことを記しました。また、日本の国土は南北に長く、海、山、里と表情豊かな自然が広がっているため、各地で地域に根差した多様な食材が用いられていることも記しました。即ち、日本には、伝統的に引き継がれる独自の食文化が今でも存在しています。おそらく、かつては食文化と同じように、酒造りについても地域ごとの特性や蔵ごとの個性が今よりも幅広く存在したと思います。実際に、生酛づくりでは一般的に酵母は添加しますが、乳酸菌は自然に生えてくるもの(醸造蔵の桶や樽に住み着いているもの)を利用するので、地域や蔵ごとに特有に存在する乳酸菌の集団に応じて、個性をもった多様なお酒ができていたようです。
 そのような側面があり、最近は個性を持たせるために、先述したように生酛づくりなどの昔ながらの酒造り技能を、現代の装置や技術と融合させて新たなうまい酒造りにチャレンジする酒蔵が増えています。
 面白いことに、最近の研究で、生酛中の酵母は、速醸酛中の酵母と比較してアルコール耐性が高く、長く保管しても元気が良いことが確認されています。酵母にとっては、速醸酛よりも生酛によって形成される環境のほうが、酒造り(アルコールや香気の生成)に集中できるようです。


■今年度の江田賞
 最後に、今年度の江田賞は「有機酸高生産清酒酵母の遺伝子解析とその応用」が評価されて、月桂冠株式会社の根來宏明氏が受賞しました。2015年には、私の先輩である三和酒類株式会社の髙下秀春氏が焼酎関連の研究テーマで初めて受賞しました。


【2015年に江田賞を受賞した髙下秀春氏】


 そして、2008年に受賞しているのが、菊正宗酒造株式会社の山田翼氏なのですが、山田氏は「清酒醸造工程における酵母のペプチド輸送調節と、その機構に着目した酵母の育種」が評価されて受賞しています。なんと、この研究では、生酛中のアミノ酸の動向について、速醸酛と比較をしながら展開されており、様々な生酛の特徴が述べられています。
 速醸酛の生みの親である江田鎌治郎先生の名前が付いた賞が、時を超えて生酛の研究に贈られるというのは面白い因果ですね。

  • 林 圭

    三和酒類株式会社 / 三和研究所 所長

    1972年、芋焼酎のメッカの鹿児島県で生まれる。
    九州大学農学部修了後、三和酒類株式会社に入社。
    研究所でキャリアをスタートした後、様々な部署を経験し、
    一昨年に三和研究所に戻る。
    社外活動として、醸造学会若手の会運営委員長ののちに、
    現在は日本生物工学会の理事を務める。
    50年代のジャズとNFL観戦を好む。